障害を、その人の「劣るところ」と捉えるのではなく、他者や社会が関わることで改善することができるものとして捉え、障害の有無に関係なく同じ時間を共有し、自分の心や体、他者との関わりを見つめ直す。社会と心、頭と体をつなげて障害を理解しようという試みが、いわきでも始まっています。今回お話を伺ったのは、いわき市内でヨガのインストラクターとして活動する藁谷弘子さん、かつて福祉を学び、寺院の役割を地域社会に拡張する取り組みを続けている菩提院の霜村真康さんのお二人。ソーシャルデザインワークスの佐藤有佳里が、二人にお話を伺いながら、「福祉とは何か」という本質的な問いを探りました。
いわき市内でヨガのインストラクターとして活動している藁谷弘子さん。2年ほど前から、視覚障害のある方たちや、自閉症など心に障害のある子どもたちへ、定期的にヨガのプログラムを提供しています。藁谷さんによれば、海外にはスペシャルニーズ(障害)のある子どもたち専門のインストラクターがおり、その先生が来日したときにトレーニングを受けたことが現在の活動のきっかけだったそうです。
藁谷:少しずつ自分の体と向き合うと、今まではできなかった動作ができるようになります。それは障害の有無に関係ありません。以前はヒザを抱えることができなかった子が、ある日、自分のヒザを抱えることができて、『生まれて初めて自分のヒザが見えた!』って感動しているのを見たとき、ヨガにしかできないことがあるんじゃないかと確信しました。
ヨガのよいところは、自分に集中できること。ヨガはポーズの精度を競うスポーツではありません。それぞれが呼吸に集中して自分の体と向き合うだけです。でも、バラバラってわけではなくて、みんな同じように呼吸をしてもらうので、そこで一体感が出てくるんです。ヨガをやっているときではなくて、ヨガを終えた後の時間がどう変わるかを感じて欲しいですね。
ヨガが終わると、騒がしかった子どもたちに落ち着きが出てきたり、これまでは会話の少なかった人たちにコミュニケーションが生まれたり、体よりもむしろ心のほうに影響が出ると藁谷さんは言います。そして、藁谷さん自身も、ヨガを通じて、障害のある方の感じ方、体の動かし方が分かり、障害への理解が進み、結果、ヨガのプログラムも充実したのだとか。
藁谷:例えば、聴覚障害のある人たちにヨガを教える場合は、生徒さんたちに声や音がどう聞こえるのかを疑似体験させてもらったり、養護学校の先生にレクチャーしてもらった後でプログラムを考えます。そこで感じるのは、私たちがいかに障害について無知だったかということです。でも、知ってみたら、なんてことはなくて、結局みんな同じだなって。違いがあるのは当たり前ですし、一緒の時間を過ごすことが大事だと改めて気づかされました。
障害のある方にとって、藁谷さんは自分の障害と社会をつなぐような存在。藁谷さんのプログラムによって体の可動範囲が広がれば、リハビリの効果も上がり、機能改善につながります。人と会ったり、人から受け入れられるという体験が増えれば、モチベーションが上がり、繰り返しヨガに参加してくれるようになる。すると、機能改善が見込め、活動制限や参加制約も軽減してきます。つまり、障害のある人たちと一緒にヨガを楽しむだけで、その人の障害を減じる重要な因子になっているということです。その人に、何か特別なことをしなくてもいい。一緒に時間を過ごす。それだけで充分福祉になっているということかもしれません。
—一人も欠けてはならない
藁谷さんが、ヨガの会場としてしばしば使っているのが、いわき市平にある浄土宗のお寺、菩提院。その副住職である霜村真康さんは、かつては社会福祉学を学んだ僧侶でもあり、現在も、多様な人たちの話を聞く「未来会議」など、地域の様々な企画に関わっていらっしゃいます。そんな霜村さんにまず伺ったのが、福祉と仏教の共通点。
霜村:福祉も仏教も共通するところは多いですよ。浄土宗は、阿弥陀さまの念仏を唱えれば極楽浄土に行くことができて、そこで皆悟りを得られるんだという教えなんだけれども、重要なのは、誰一人欠けることなく、皆が一緒に極楽浄土に行こうという考えが根底にあることです。そこには、利他、つまり誰かのために尽くすという考えがあります。仏教も福祉と根っこは同じです。
藁谷さんのヨガにも参加したことがあるという霜村さん。ヨガも仏教も自分と向き合うことを大事にしているのは同じだと言います。
霜村:人間って、どうしてもよその人と比べて劣等感を感じたりしてしまう。だから、他者に囚われてしまう心から離れる時間が必要なんです。座禅したり念仏を唱えることも同じですよね。一点に集中することで、自分を俯瞰する瞬間が訪れて、まずは自分と向き合う、自分を知るということが出発点です。
そのうえで霜村さんは「自分と向き合うことを仲間と一緒にやることがポイント」だと話します。霜村さんは、定期的に「講」という集いを企画しています。いわき市平にある廿三夜尊堂で開催している廿三夜講もそのひとつ。講とは、日本では全国各地で当たり前に開催されている、いわば地域の人の集いの会。食べ物やお酒を持ちより、誰かの話に耳を傾け、最後にみんなで数珠繰りをします。
霜村:講で重要なのは、誰かの話を否定も批判もせずに黙って聞こうという暗黙の了解があることです。それがないと、みんな本音なんて喋れませんから。色々なことを素直に、本音で話せる。聞く人も一旦はそれを受け止める。そういう手法は、実は『未来会議』などでもしばしば用いられるファシリテーションにも共通することです。自分の心を見つめ直す。すると、他者への寛容さが出てくる。他者を批判しないこと。それは自分を認めてもらうためのルールなんです。
自分の存在が認められる。そのような小さな承認欲求を積み重ねていく先に、他者を受け入れるだけの余裕、余白が生まれます。心と体の両面からまずは自分と向き合い、そこに生まれた余白に他者を受け入れる。そして、他者との関わりのなかで、自分の存在がよりよいものになっていく。なるほど、講の存在は、福祉が、仲間や社会、外の人たちの関わりがあって初めて成し遂げられるのだということを示唆しているような気がします。
—異なる他者に寛容になること、すでにそれは福祉
障害や福祉という言葉を聞くと、あんな配慮をしなければいけない、マジメに対応しないといけないと思ってしまう人もいるかもしれません。しかしその対応以前に、障害のある方が何を求めているのか、そもそもどんな人なのか、障害ではなく「個人」に向き合うことが求められます。その第一歩は、聞くこと、知ることではないでしょうか。
霜村:さきほど紹介した『利他』の対義語として、修行者が修行を積んで、自分だけがその結果を得るものを『自利』と言いますが、利他と自利は相反するものではなく、自利が満たされると利他が生まれ、利他によってまた誰かの自利が満たされるという関係にあるんです。自利が足りないことを『自利貧(じりひん)』と言います。誰かへの寛容は、必ずに自分に返ってくる。そしてそれこそが修行なんだとお釈迦様は言っているわけです。
藁谷さんにも、そして霜村さんにも共通しているのは、自分と他者の関わりを通じて障害を減じていこうとすること、そして、それがいずれ自分にも跳ね返ってくると信じて、自分から他者を受け入れようとしていることです。そこで見えてくるのは、霜村さんの言葉を借りれば「利他と自利がめぐる社会」。誰かのためと、自分のためがうまく重なる。そんなところに福祉の理想があるのかもしれません。
藁谷さんのヨガや、霜村さんの講に、ぜひ足を運んでみて下さい。そこで誰かを受け入れ、まずはお話ししてみる。たったそれだけでも、誰かの幸せを願う「福祉」になるはずです。そして、その異なる他者の受け入れこそ、さまざまなものを「超えていく」ことにつながるのではないでしょうか。
藁谷 弘子(わらがい・ひろこ)
ヨガインストラクター。「Re.yoga Lotus」を主宰。視覚障害者やダウン症の方のヨガなど、障害をもつ方にヨガを経験してもらう取り組みも積極的に行うなど、広くヨガの普及にあたっている。
霜村 真康(しもむら・しんこう)
1976年栃木県栃木市生まれ。 2000年大正大学社会福祉学専攻卒業。2005年より、いわき市平の菩提院袋中寺副住職。2012年からは、未来会議事務局副事務局長を務める。
佐藤 有佳里(さとう・ゆかり)
福島県富岡町出身。障害のある方とそうでない方の社会での待遇の差に違和感を感じながら、学齢期を過ごす。世田谷福祉専門学校で手話通訳を学んだのち、聴こえない方専門の接客窓口ソフトバンク渋谷手話カウンターで接客を経験。LITALICOジュニアにて療育を経験し現在に至る。
GochamazeTimesCompany
全国各地にライターやプロボノを抱える編集社。タブロイド紙|GOCHAMAZE timesの季刊発行、および、地域の方々と共創するごちゃまぜイベントの定期開催により、地域社会の障害への理解・啓発|年齢・性別・国籍・障害有無に限らず多様な”ごちゃまぜの世界観”をデザインし続けている。
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