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いわきから「ごちゃまぜ」 あらゆる障害のない社会へ

ごちゃまぜ映画を探せ! 緊急座談会

言葉ではなかなか伝えにくい「ごちゃまぜ」を、名作映画なら伝えられるはず。見れば納得の「ごちゃまぜ映画」はどこにあるのか! 編集部で緊急座談会を開催。映画好きを自認する4人のクルーに加え“フクシ映画”を鑑賞するイベント「フクシネマ」を主催するケアマネ、早坂攝さんをゲストに迎え、12本の映画に秘められた「ごちゃまぜ」を縦横無尽に語り合いました。

座談会メンバー:写真左から小松知寛、佐藤有佳里、早坂攝さん、松岡真満、渡辺香

1、ズートピア:理想社会の社会課題

松岡:みなさん今日はお集まりいただきありがとうございました。さっそく早坂さんとともに、ごちゃまぜ映画について語っていきたいと思います。まずは『ズートピア』からいきましょうか。

佐藤:すごく分かりやすいごちゃまぜ作品ですよね。リアルな世界の人種問題が、動物の弱肉強食の世界観で分かりやすく描かれています。かわいらしく描かれているので大人も子どももそれぞれの理解度で楽しめるのがいいですよね。

早坂:ぼくは、理想の世界が実現したら、そこではどのような問題が起きるだろうと、そんな社会実験のような映画に見えました。理想の社会でも問題は起きる。じゃあどういう問題かというと、弱者を守るために強者と思われていた存在が抑圧されてしまう、つまり逆差別の問題が、この映画から読み取れる気がしますね。

渡辺:ああ、確かに。得体の知れない病気が流行って肉食動物が凶悪になってしまうという展開がありましたよね。恐怖によって差別が生まれてしまうという。そうやって人の不安を煽っているのは現代社会にはよくあることです。商品も売れて経済も動くし。心理的に使われているテクニックだったりしますよね。

佐藤:それをね、映画では弱い立場とされる草食動物のほうがやってしまう。鬱憤が溜まっている副市長がライオン市長を失脚させるための罠でしたね。そういうところは大人が見てもどきっとするし、見ていて興味深い。かなり突っ込んだ内容になっています。

早坂:この映画のメイキングには、肉食動物がどうやって野生本能をコントロールしているのかが描かれています。肉食動物は何歳かになるとデバイスをつけて野生本能をコントロールされているという設定なんですよ。本編でカットされたシーンには肉食動物のキツネ君が子供の頃にデバイスをつけられた儀式を思い出すシーンがあるんですが、つまりこの理想社会には、肉食動物から見たら抑圧の構造がある。弱い立場の人たちを守る社会を作るため、強い立場にあった人が抑圧される立場に回ってしまうというのは、かなりセンシティブな内容です。

渡辺:映画のエンディングまで見ると、悪巧みしてたのがヒツジちゃんだったと分かるんですよね。弱そうなのに悪巧みしてる。弱い立場になって考えましょう、それはもっともな話だと思うけど、強い立場とされる人たちからも「おれたちだって大変だ」と声が上がる。これって世界中で起きてることですよね。

早坂:監督のリッチ・ムーアという人は、人気アニメ『ザ・シンプソンズ』の脚本を書いている人で、あのアニメの内容もそうですが、皮肉をたっぷりと入れてくるんです。ムーア監督はアメリカ白人です。だから、今盛んにポリティカルコレクトネスが叫ばれているアメリカで、強者とされるアメリカ白人が実は逆に差別されてるんじゃないの?  みたいな皮肉を込めているんじゃないかというようにも見えるんですよ。だから結構難しい作品だと思っていて。そのうえでこの映画のごちゃまぜポイントを探すと、自分の能力を活かして主人公たちが頑張るところですよね。弱い立場だからといって甘んじているわけではなく、得意なことを活かして勝ちのこっていく。それを実力社会でやっていくのがアメリカ映画らしくもあります。

小松:ええ、そこがごちゃまぜポイントかなり高いですよね。それからいろいろなディティールがいいんですよ。小さい動物には小さい町があったり、カバは水辺の動物なので水を浴びながら電車に乗ってきたり。まさに合理的配慮がなされてて。ごちゃまぜの世界が映像としてボンっと入ってくるのがいいと思います。視覚的に分かりやすい。

佐藤:それで改めて思うのは『ズートピア』のごちゃまぜの世界は決して素晴らしい社会というわけじゃないってことなんですよ。理想の社会かも知れないけれど、理想の社会にも都度都度向き合っていかないといけない難しい問題が必ず出てくる。そもそもそういう難しい問題を抱えてしまうのが社会なんだってことにも改めて気づかされました。そういう意味でも、とても深い映画ですよね。

2、グレイテストショーマン:嘘と紙一重のエンパワメント

松岡:じゃあ次の作品、『グレイテストショーマン』にいきましょうか。これ、本当に素晴らしいオープニングでめっちゃしびれますよね。

渡辺:スピードやテンポが素晴らしくて、矢継ぎ早に背景が変わっていく映像美術が本当に素晴らしいですよね。「モーションコントロールカメラ」っていうカメラで撮られているんですけど、カメラがまったく同じ動作を何回も繰り返せるので、カメラに合わせて人が動いていけるし、背景を合成しても違和感がかなり小さい。そういうテクノロジーがあってこその映画でした。

佐藤:ごちゃまぜポイントとしては、社会的に弱い立場にある人や、身体的特徴の強い人が自分たちの意志でショーに出てるということ。それがすごく伝わってくる。いろいろ他の人たちから差別的なこともされるし、嫌な思い出もあるんだけれど、それすらもエネルギーにして踊るのよ! みたいなところがすごく感動できますよね。社会のシステムも、嫌だと思うことも変えられない。けれど、それをどうやって誰かに伝えていくのかをみんなが考えていて、それが結果的に魅力的なショーを生み出していく。可哀想だからお金を払おうじゃなくて、魅力的だからみんながお金を払っていく。それがとてもポジティブなメッセージになっていますよね。

早坂:彼らの人生に対する熱量がショーの熱量そのものになってるんです。とにかく主人公バーナルのエンパワーが抜群にうまくて、みんながその口車に乗せられて熱量に変わっていく。しかも生粋の詐欺師だから口がうまい。ほんと、詐欺と支援って紙一重ですよ。

渡辺:やりすぎると嘘になっちゃうけど、うまくその人をドライブさせていけたら、すごくいいテクニックにもなり得る。障害福祉でもエンパワメントはめちゃくちゃ大事な要素ですね。

ほとんど全員からの評価の高かったグレイテスト・ショーマン

早坂:ぼくもケアマネやってるから思うんですけど、施設に行くとね、部屋の飾り付けしたり、楽しさを演出したりという場面に遭遇します。子供騙しだと思われるけど、楽しいから一緒にやろうぜって利用者さんの気持ちを上げていく。それにはテクニックが必要だと思います。そこから見ても、バーナムの熱量はとにかく素晴らしい。

小松:誰一人としてやらされている人がいないというのが熱かったですね。ああ、ぼくもこういう支援したいなって。そういうことを形にしていた気がします。

佐藤:それともうひとつ大事なのは、経済的な活動が中に入ってること。外から支援をしてお金を出してあげる、っていうのではなくて、興行という経済的活動を真ん中に入れることで、自立を目指せるようなサポートになっている。劇のなかの資金は詐欺で手に入れたお金なので「悪いお金」なんだけど・・・。それによって当事者がドライブされ、熱量が上がっていく。まさに「エンパワメント映画」ともいえる作品でした。

3、レゴ・ムービー:普通であることの特別さ

松岡:さあ次は「レゴ・ムービー」です。これは小松さんがイチオシでしたね。

小松:主人公の何者でもないところから始まって、その何者でもない主人公が自分の居場所を見つけていくプロセスがすごくいい。ごちゃまぜって「多様性」とか「違い」とかをキーワードにしているから、あたかも「特別な違いを持っていないといけないんじゃないか」って思われたりもするんだけど、そうじゃなくて、特別なものなんてない今のあなたのあるがままが特別なんだっていうメッセージがある。大人が見ても面白いです。

レゴ・ムービーをイチオシするのは、ソーシャルスクエアいわき店の小松

佐藤:パーツを変えると意味が変わったり、今までジェット機だったものが町の一部に変化したり、ビルが船になったり。ある役割を与えられているものが、実は他のものに変わることができるって、レゴじゃないと表現できないんだけれど、もしかしたら社会もそうかもしれないっていう想像になっていく感じですよね。

小松:レゴのロックは人の想像力のシンボルです。ブロックが集まってロボットになったり道になったり、映画のなかのシャワーの水滴もブロックで作られていたり、本当に無限の可能性が広がっている。これはすごい世界観だと思うんです。見方を変えると何にでもなってしまう。つまり福祉でいう「リフレーミング」ですよね。

早坂:そうですね。それから、無限の可能性っていうのが、最低限の規則やルールがあるからこそ成立するっていうことも大事ですよね。ごちゃまぜって「はい、自由!」っていう自由じゃなく、そこには最低限の規則がある。そしてそのルールを、大人が作るのではなく、子どもたちの見え方で作っているのがこの映画のいいところですよね。

小松:改めて思うのは「普通の特別さ」です。特別じゃないといけないわけではない。普通がもう特別で、普通が認められる社会の方がいい。今の世の中、クリエイティブなものが求められてたりもするけど、そうじゃなくても全然良くて。スクエアを利用してくれている人たちの顔を思い浮かべながら、特別って何だろうと考えさせられました。

4、ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ:最後に残った自分そのもの

松岡:次は『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』にいってみましょうか。最後のシーンをどう受け止めるかで評価の分かれそうな映画ですよね。希望と取るか、絶望と取るか。

渡辺:エンディングは、ヘドウィグが真っ裸で夜の道をさまよい歩くというシーンなんだけど、私には希望に見えました。人って結局みんなひとりで、そのひとりであることが認められるべきだっていうところに立ち返っていくような。ドラァグクイーンみたいな人だったのに、化粧も何もかも削ぎ落とされてひとりの人間になっていく。あるがままの自分を受け止めて、それでも歩いていくんだって希望的なシーンとして読み取りました。

佐藤:支援していると、どうしても依存度の高い人と出会いますよね。「支援がなくなったら生きていけない」なんていう感じの。だけれど、やっぱり人間はひとりだし、傷つきながらも自立していくんだっていうことだと思うんです。最終的にはひとりの自分が残っていく。私も、最後は希望的なシーンに見えました。

早坂:ぼくは逆に悲しい映画だなって思って見ました。描写としてはハッキリ描かれてないけれど、父親から性的な虐待を受けただろうし、母親の癇癪もあっただろうし。性転換手術が失敗したり、歌手として残した楽曲をイケメンの彼氏に奪われてしまったり。見ててちょっと辛くなってしまう。

早坂さんの解説に耳を傾ける佐藤。12作品を考えることで、ごちゃまぜの「リアル」が見えてきました

渡辺:そうですね。悲しいことばかり起きるんだけど、最後になって主人公がようやく執着から逃れていくようにも見えるんです。人間って何かを、この映画では愛を、ということになると思うんですが、どうしても求めてしまう。そこに執着し続けていくんだけど、最後の最後で、自分の足で歩いていくんだという意志が見える。確かに見る人が見ると死ぬために歩いていくように見えるけど。

佐藤:なんか、むき出しの自分に残った意志みたいなものを感じていないと自分がなくなってしまうような世の中なのかもしれませんね。こんなに傷ついても自分は自分なんだって常に思っていなければ立っていることができない、みたいな。本当はそんな強い意志なんて必要ないはずなのに、そういう社会になってしまっている。世の中の辛さも、映画にの中には表現されているようにも思いました。

5、リリーのすべて:愛する人のすべてを受け入れる苦しみ

松岡:次の映画は『リリーのすべて』です。世界初の性別適合手術を受けた人物、リリー・エルベを題材とした映画です。実物のモデルがいるので説得力がすごくあるし、素晴らしい映画でしたよね。皆さんの感想はどうですか?

佐藤:本当に良かったですね。演技もうまい。考えさせられたのは「受容」です。作品紹介には「無償の愛」みたいなものが言及されてるけど、奥さんだった人は、旦那さんが女性になることを望んでいたわけではないし、手放しで「YES」と言ったわけじゃない。自分の旦那さんが女性になっていくことに戸惑い、受け入れられず、悲しさもありながら見捨てることができない。これって「無償の愛」なんて綺麗なものじゃないですよ。それでも自分の目の前の人を支えたい、と苦しむ人の映画だったように思います。

渡辺:はい。ほんと受容していくプロセスの苦しさがリアルに表現されていて。社会を考えなかったら旦那さんの選択を受け入れられるのに、周りを気にするからこそ揺れ動いてしまう。その揺れ動きが見えてくるんです。だから、その問いが自分に返ってくる。家族や彼氏や旦那さんが「おれは女性になりたい」ってことになったら、どう思うかなって。

佐藤:仮にそうなったとして、「え?」って思うことって普通じゃないですか。でも多様性の受容を過度に求める社会は「疑問を思ってしまうことすらダメ」というような窮屈な社会になってしまいます。そういうことはリアルに起こり得る。仮に自分の子どもがカミングアウトしたとして「ごちゃまぜでいいじゃない!」と言えるかなって。

早坂:この映画はジェンダーが前提にあるけれど、男性が女性になるって単純な話ではないですよね。例えば、結婚した後になって「自分が自分であるためにはこうしなくちゃいけないんだ」ってことが分かった時に受容できるか。どうするんだろうと、本当にリアルな問いかけをしてくれる映画でした。

渡辺:応援したら自分が苦しくなる。それが分かっているからこそ余計に苦しい、っていうところにリアリティがありますよね。例えばうちの旦那さんが「女性になりたいんだ」ってカミングアウトしたら、自分は受け入れられるか。すぐに「はい」とは言えない自分もいる。ああ、自分ペラいなぁって思ったりもして。受け入れるって何だろうって、そういう深い問いを残す作品だと思います。

6、レナードの朝:目の前の人に向き合う

松岡:次は『レナードの朝』です。1990年の作品なので、もう25年前ですね。脳の病気で寝たきりになった患者たちに、主人公のマルコムという医師がパーキンソン病の未承認薬を投与して、奇跡的に意識を回復するんだけれど・・・・という作品です。もともとは医療ノンフィクションがもとになってる作品みたいですね。

小松:この映画って、社会をごちゃまぜにしていく最初のプロセスが描かれていると感じました。主人公のマルコムはお医者さんですが、あくまで研究者で、臨床ではやった経験がない。勤め先の頭数を揃えるために仕方なくやらなくちゃいけなくなって。でも真面目な性格で、患者さんのことを理解するために奮闘する姿は「その人を知る」ことの重要性を示している気がします。ほんと、福祉の第一歩、っていうか。

佐藤:確かにそれが「ごちゃまぜの第一歩」かもしれない。その人の特性を知るところからすべてが始まる。マルコムがレナードを始め患者さんに真摯に向き合う姿はとても感動的だと思います。一方で、もともとの原作が1980年代の制作なので、障害を取り扱うリテラシーがまだ未成熟だったという時代感もよく出ています。

早坂:確か、映画の中では主人公は植物の研究をやっているはずです。で、その「植物」と、病床の人たちがあたかも「植物状態」として共通するものとして描かれているんだけど、患者さんは決して植物状態にあるわけではない。その辺りに、当時の障害に対する捉え方が見て取れる気がします。

佐藤:病気の名称もテストも診断名もなかった時代だろうから仕方ないのかもしれないけど、映画の中で、彼らは医者から「人間の中身が変わってしまっているから彼らのことは理解できない」みたいなことを言われてしまうんです。主人公はそう思ってなくて、病気を治せば大丈夫なんだと思っているんだけど、当時の人たちの障害に対する捉え方、医師ですらこうだったんだなと。

早坂:ぼくは認知症の介助もするんだけど、ふと思うのが、この映画のように明日いきなり健康な体を取り戻したらどうするんだろうってことです。認知症の介護って限られた人材でやるから、ひとりひとりへの対応はやっつけになりがちだし、流れ作業のようになってしまうけれど、目の前のおばあちゃんが朝目覚めて、言葉を取り戻したらどうしよう。ああ、これは下手なことはできないぞ、ちゃんと向き合わないといけないなって思うんです。この映画も、障害があっても人間の中身は変わらないんだってメッセージが根幹にある。障害があろうとなかろうと、ひとりの人間に対して真摯に向き合わないといけない。

ひとりの人に向き合うことの大事さを語る早坂さん

佐藤:そう思うと、その人が本当にやりたいこと、生きるという最低限のことじゃなくて、その人がやりたいこととか、楽しいと思うことに対する支援って、あまり行われてないなって思います。

早坂:うん、そうですね。重度の身体障害とか、脳性麻痺の患者さんに対する支援で言われることなんだけど、反応がないから生きる機能のところだけケアをすればいいと思われがち。楽しみとか日々の生活の中の刺激みたいなところへの支援も必要だと思います。

佐藤:本当にそうですね。映画を見たり、本を読んだり、研究をずっと続けたり、そういう好奇心に対する支援って、ないんです。支援はいつも生きる、生活する、という領域だけになってしまいます。『レナードの朝』でも、主人公のレナードが「俺は外に出ていくんだ」って言って町に出て行きますよね。ああいう支援をしたいなっていつも思ってます。

渡辺:その人がどうありたいか。何をしたいかを知るための「インテイク」の重要性ですよね。インテイクは福祉的な意味だと「初回面談」。相談に来た人から事情を聞く、最初のケースワークのことですけれど、マルコムがレナードに向き合う姿とか、その人が本当に何を望んでいるのかを考えていくという意味で、極めて「インテイク度」の高い映画だと言えるかもしれませんね。

7、アイ・アム・サム:支援の「逆転」

松岡:次は「アイ・アム・サム」にいきましょう。これはショーン・ペンが知的障害のある父親の役をやっていて、映画もヒットしたので、ザ・障害福祉な映画としても知られています。それだけに、ちょっと評価の難しい映画かもしれませんね。

早坂:そう。だからぼくはこの映画をずっと避けてたんですよ。でも今回初めて見て、ショーン・ペンの演技の幅の広さを感じました。ただ、知的障害のある人に普段は接していないので、どの程度リアリティがあるのかは分かりませんでした。

佐藤:サムのような人、いそうな感じがしますよね。自分が否定されると、今までやろうとしていたことが急にできなくなってしまったり。劇中の弁護士たちも、みんなによく思われたくて弁護の仕事を受けるんだけど、最初は話が通じない。でもだんだんサムと関わっているうちに、実は自分がサムに助けられていた、という経験を重ねていく。そして、どうしたらサムが自分も娘を取り戻せるか、どう証言すればいいかを考えるようになる。ああ、これは支援的にいい変容だなって思いました。リアリティもあります。

早坂:この映画のごちゃまぜポイントとして考えたいのは、腹割って話したからこそ、すごいと思っていたことがそうじゃなかったと分かったり、ダメだと思っていた自分が誰かを救ってしまうということ。デコボコなのに、なぜか結果的にマッチしちゃう。これってほんとごちゃまぜ的ですよね。

小松:普通にキレイな感じで人を感動させてくれる映画ですよね。冒頭で紹介した『ズートピア』よりも理想に近い気がします。助け合いの部分とか、助けてるつもりが助けられていた部分とか。サムが人に恵まれているのもいい。最後、みんなが味方になっちゃうし。

早坂:主人公は障害者なんじゃなくて「超能力者」なのかもしれないよね。いろいろな人を味方にしちゃう。でもここには批判も多くあるんです。ショーン・ペンが障害者を演じて賞を取ったけれど、それってどうなの? みたいな批判は結構ありました。『トロピックサンダー』という映画では、ベン・スティラーが売れないアクション俳優を演じてて、ショーン・ペンが演じるサムの真似をして、障害者が主人公になる映画を作るんです。でもそれが大失敗する。大失敗した理由について、彼は映画の中のセリフで「障害者を正直に描きすぎた」って説明するんです。何の特別能力もない障害者は、ショーン・ペンの演じたサムのような能力を持っているわけじゃない。普通の人だったらどうなの?っていう皮肉が込められているんです。

小松:そこが、『アイ・アム・サム』がきれいごとだと敬遠されがちなところと重なるかもしれませんね。

佐藤:『アイ・アム・サム』の小説は、もっとヒューマンドラマというか、障害のことはそんなに書いてないんです。映画化するにあたって何らかの演出をしようというとき、障害のことを誇張して分かりやすく表現してるんだろうなと思いました。昔の映画としては結構チャレンジングだったのかもしれません。

早坂:障害のある人が、周りに助けられている人ではなく、周りを巻き込んでいって自分の力にしていくというのは今の感覚に近いですね。レオナルド・ディカプリオが知的障害のある少年を演じた『ギルバート・グレイプ』では、彼は「助けられるもの」として描かれている。以前は圧倒的にそうでした。けれど、『アイ・アム・サム』が興味深いのは、周囲は助けたんだけれど、実は本当に助けられたのは障害のないおれたちのほうだったんじゃないかって作りになっている。いやあ、サムの人間力ですね。

インテイク、受容、エンパワメントなどの福祉用語が次々に飛び出しました

8、グーニーズ:居場所があるから、特性が発揮できる

松岡:8本目は1985年の『グーニーズ』です。ちなみにこの映画が公開されたときは私はまだ生まれてません。「グーニーズ」というのは「マヌケな」って意味もあるそうです。登場人物の子どもたち、めちゃくちゃキャラクターが立ってますよね。

小松:もう最高ですよね。ズッコケ3人組見たいな感じで。こういう子どもが集まってワイワイやりながら冒険していくので単純に楽しい映画ですよね。子どもの頃に見たときは少し怖いイメージのあった映画なんですけど、いま見返してみると、『グレイテスト・ショーマン』もそうですが、自分たちの居場所がちゃんとあって、その居場所を守ろうとする物語なんですよね。これって多様な社会には欠かせないポイントだと思うんです。自分の居場所や家族を守るために、それぞれの特性が発揮されてる。ごちゃまぜですよ。

早坂:テレビの「金曜ロードショー」とかでもやってたので、何度も定期的に見てきた映画ですが、構造的に家族と家族の話になっています。実はお互い同士、自分の居場所のために戦うわけですよね。片方は手段を選ばない家族。もう片方は友達を大事にするフレンド志向の家族。その戦いなんです。仲間や友達を大事にする方が勝つというのは、とてもスキッとする爽やかな描き方だと思います。

佐藤:そうですね。仲間度がめっちゃ高い映画だと思いました。いろいろな個性や特性があって、それは学校などの環境ではネガティブに見られてしまうのに、冒険に出たり、戦ったりするときには素晴らしいスキルとなって登場する。

早坂:『グーニーズ』の制作総指揮はスティーブン・スピルバーグです。いかにもな感じがするじゃないですか。『E.T.』もそんな話ですよね。友達の力で勝つ。2011年にヒットした、J・J・エイブラムスの『スーパーエイト』も、仲間と一緒に戦う作品でした。これも製作にスピルバーグの名前があります。エイブラムスはスターウォーズの新シリーズも監督してますが、こういう風に仲間と一緒に自分たちの居場所を守るために戦う映画っていうのは普遍的な流れがあるんです。日本の『ワンピース』もそうですよね。

9、RENT/レント:キラキラな「ごちゃまぜ」もアリ

松岡:次は9本目の『RENT/レント』です。こちらもミュージカル・ドラマですね。元々はブロードウェイのミュージカル作品として生まれた作品ですが、ドラッグやHIVなどが取り上げられるので、結構ヘビーそうな作品でもありますが、全体的にはなんか楽しそうなキラキラした映画でした。

佐藤:なんか、言葉だけ見るとドラッグやHIV、さらにはそこに貧困の問題とかも出てきているので大変なんだけど、みんなで助け合ってクリスマスを過ごそうぜってノリで、しかもそのノリが、社会的に成功しようとか、何かの支援が得られるとか、そういうものではなくて、社会適時な弱者だって楽しくハッピーに過ごせるし、幸せになる権利はあるんだし、いまをまずは楽しもうぜっていう感じの映画でした。今は今でいいじゃん、って感じなので、もしかしたら「ごちゃまぜ」じゃないかもしれないけど。

早坂:実は『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』に出てくるヘドウィグの恋人が、ミュージカルのレントに合格したってシーンがあって、それでレントのTシャツを着てるんですよ。そのシーンを見たときにはまだ映画の『RENT/レント』を見てなかったので、どういう映画か分からなかったんだけど、そのシーンで何を描こうとしていたのか思い返すと、多分、ヘドウィグと恋人のトミーでは世の中の見方が違ってて、あくまで自分を大事にするヘドウィグと、レントみたいなものを好きになってしまう恋人との隔たりが表現されてたんじゃないかって思ったんです。

渡辺:分かります。なんかキラキラしてて、日本だと女子高生が主人公の映画みたいな分かりやすい作品ありますよね。ヘドウィグはレントをそういうキラキラ女子高生映画みたいなものとして批判的に捉えてるのかもしれない。

早坂:スラム街で楽しく生きる人が描かれてしまうと、やっぱり構造は変わらないわけですよね。貧しいことがそれでいいとされてしまう。でも、困ってる人たちなんだから社会的な介入は必要だろうと思います。でも実際に映画では当事者たちはこれでいいって思っている。ソーシャルワーカーとしてはそれでいいのかなって思ってしまいますよね。

佐藤:そうですね。ただ、少し角度を変えてみると、色々あるけど楽しもうぜ、それも「ごちゃまぜ」じゃんっていう考えはあってもいいとは思うんです。正統派な支援とかをしている人からすると「違う!」になってしまうかもしれないけど、まずはその場を一旦はハッピーなものとして描くことで、彼らのような存在を受け入れる場所を作る、という意味では、ごちゃまぜの要素はあるかもしれません。

早坂:うーん、なんていうか、まさに「ごちゃまぜのリトマス試験紙」というか。この映画をどう受け取るかで、その人がどう「ごちゃまぜ」を捉えているかが分かる。ここでみなさんが語っている「ごちゃまぜ」ではなくて、社会では『RENT/レント』のようなごちゃまぜがイメージされているかもしれませんしね。

10、アタック・ナンバーハーフ:集まることで、自分を認められる

松岡:さあ、いよいよ10本目。今度はタイの映画『アタックナンバーハーフ』です。レディボーイのバレーボールチームの奮闘を描いた作品ですが、これを一押ししてるのは渡辺さんですね。どんな映画だと捉えてますか?

渡辺:この映画を見た時って、まだまだ今のようにLGBTという言葉もなかったし、単純に「オカマ」が出てる映画として面白そうだと思って見たんですけど、レディボーイを日常として受け止めている人がいたり、一方で、レディボーイのお母さんは「なよなよして!」なんて思っていたりして、日常の中に彼らがいて、彼らと共に生活しているってことが20年前に普通に起きている。これってすごい面白いなって思いました。しかも、監督は「オナベ」だし、濃い目の登場人物がたくさん出てくるんですが、実話が元になってて、日本ってこういう部分ではすごく遅れてるなと思いました。とっても面白い映画です。

佐藤:これ、続編もあって私はそっちを見たんですけど、誰かと出会ったことによってLGBTであることをカミングアウトできて、自分を認め合ってハッピーに暮らしていけるということが描かれていて、すごくいいなって思ったんです。1作目もそういうところがありますよね。

渡辺:うん。そういう選択肢があるんだって気づかさせてくれるんですよ。男と女だけがあるわけじゃない。外と内の性が違う時、自分を責めるんじゃなく「違っていいんだ」って思えたら瞬間に人生が変わっていく。スポ根映画でもあるんだけどそういうのがとても気持ちがいいんです。

『アタック・ナンバーハーフ』の魅力について語る渡辺

早坂:その意味では、とてもハッピー度が高い映画ですね。大事なのは「集まる」ことかもしれません。そういう人たちが集まることで「私もこれでいいんだ」って思えてくる。ごちゃまぜもそうだと思います。肯定というか自己受容というか。それはごちゃまぜが一人ではない集まりによって形作られるがゆえに生まれることですよね。

渡辺:タイはすごいんですよ。普通にメイクさんとか頼むとレディボーイが来るし、本当に普通に多様な性が暮らしに根付いてる感じで。タイは性転換手術の先進国でもありますしね。そういう意味でも、日本ではまだ感じられないような暮らしのなかのごちゃまぜが感じられるので、すごくオススメしたい映画です。

11、レインマン:ダメ野郎が辿り着く福祉の本質

松岡:11本目は名作ですね。ダスティン・ホフマンとトム・クルーズの『レインマン』です。トム・クルーズがめっちゃ若いことから分かるように、めっちゃ昔の映画なので障害の捉え方がずいぶん昔の感覚ですよね。ウィキで調べると「サヴァン症候群」とありますが、物語の中では病名が出てきません。驚異的な記憶力を持ち、数字に強い兄と、自由奔放な弟の兄弟愛を描いたストーリーです。

佐藤:感動ポイントとしては、父の遺産欲しさに病院から兄を誘拐するんですけど、最初、弟は兄のことを全然理解できない。兄はルーティンを崩されるとギャッとなってしまうんですね。でも、少しずつ兄のルーティンを整えていくと「こいつ結構イケるぞ」って分かってくる。その瞬間に弟が変わるんです。ルーティンを理解してあげればジョークも通じる。心が通じる。今までは兄のことを「障害者」とか「金目当て」とか思っていたけれど、お兄さんが楽でいられるコツを覚えて心を通わせていくんです。まあ、弟は基本クズ野郎なんだけど、超だめだめなやつが「兄と心が通じたんだ」と言える。それがいいところですよね。

渡辺:あんなダメな人間に障害のある人を任せられないじゃんって思われがちですけど、だからこそ「化学反応」が起きている。人と人がちゃんと向き合っていくと、こういうことが起きる可能性があるってすごく希望がある。専門的な知識やスキルがなくても、環境をつくっていくことができるんだって。そういうメッセージを感じました。

早坂:それってすごくソーシャルデザインワークス的ですね。福祉のバックグラウンドがない人でも、そうなれてしまう。気づいてしまう。それがいいですね。どんなクズ野郎でも気づける環境がある。向いてないと言われていてもね。ぼくももともと介護士ではないんです。何も知らなかったけれどハマったら面白かったんですよ。つまり、この映画は支援の面白さに気づいていくプロセスを描いた映画なのかもしれない。

佐藤:弟は最後にはめっちゃ優しい人になってるんです。でもそれは多分兄に対してだけで、基本的には相変わらずクズなんですけどね。なんか、それでいいと思うんです。一緒にいたいって思える人に優しくできるだけ十分じゃんって。

『レインマン』を通じて、ルーティンを理解することの重要性を感じたという佐藤

早坂:そうですね。この人は障害者だってフィルタリングしてる人が多いなかで、障害者ではなくて、この人は兄だから、友達だからと優しくなれる。それはとても健全だと思うし、人はそういうものなのかもしれません。障害者だから優しくしないといけない、というわけではなく、彼らは人間として付き合っているわけで。それからやっぱりこの映画のトム・クルーズはイケメン俳優として注目されてたけど演技も素晴らしかったですね。もともと演技派のダスティン・ホフマンと組んだことで化学反応が起きている。その意味でも、この映画は「化学反応映画」と言えるかもしれませんね。

12、桐島、部活やめるってよ

松岡:次は今回唯一の邦画ですね。『桐島、部活やめるってよ』です。これもまた評価の分かれそうな映画ですよね。

佐藤:私は、これもすごいリアルだなって思いました。なんかこう今「他の人なんていいじゃん。大事なのは自分だよ」みたいな社会的にはなってきてるけど、それができない難しさがあります。他の人の目とか、スクールカーストとか、そういう社会の側にある障害を無視できない。それをどう処理するんだって考えさせられました。みんなが桐島にはなれないわけですよね。ごちゃまぜを、感度高い人に発信するだけじゃなくて地域や社会が対象になったとき、こういう社会の側にある障害をどうすべきか。その難しさを考えました。

早坂:難しいですよね。映画の構造としては、なんというか「高校生振り返りモノ」みたいなね。自分もあんときはこうだったとか、今の自分は果たしてその時の自分から成長してるのかなって投げかけみたいな。そういうジャンルがありますね。

小松:これを見ながら友達と喋るのが楽しいですよね。ぼくはバレー部のリベロに感情移入したし、最後のシーンは東出(昌大)くんに共感しましたね。空っぽだってセリフに。

早坂:ぼくはキャラとしては映画の中にいなかったですね。前から特定のコミュニティに入るというより、ちょいちょいいろいろなところと付き合ってる感じなので。だから「ああ、こいつはオレだ」って見方ではなく、単純に映画の観客として見ました。

小松:そういう風に自分のポジションの話をすることで理解していく映画だと思うんです。見たあとに、映画や高校生時代の自分の話をしながらお互いに理解していく。実はこの映画ってコミュニケーションツールになってるところが面白いと思うんです。

松岡は「映画のなかのキャラクターは自分だった」と振り返る

松岡:私は完全に沙奈でしたね。今見直すと自分の歴史を変えたいってくらい沙奈が自分と重なりました。映画の中では最悪なやつなんですよ。一番消えた方がいいやつ。相手によって態度変えるような。ああ、あたしだーって思って見てました。

早坂:もしかすると「自己分析映画」かもしれませんね。その意味では、ごちゃまぜに混ざる前の、ここから混ざっていくんだってストーリーを映画化したものかもしれませんね。ごちゃまぜになるには、お互いを分析して知る必要がある。お互いの個性を、この映画を通じて知ることができる。この映画を見て、ごちゃまぜが始まっていく。そんな映画かもしれません。

佐藤:ここまで12本見てくると、ごちゃまぜってこういうことか、みたいなものが分かってくる気もするんですが、どうでしょう。掴みきれない概念なんで、ごちゃまぜが分かる映画を見てみようっていう設定は少しキツかったかもしれませんね。

早坂:ごちゃまぜって最終的にどういう形になるかって、結局分からないじゃないですか。これから作っていくものだから。その意味で『ズートピア』とかはビジュアルでその世界観が出ているのですごくいいなと思いました。でも、ごちゃまぜって難しいよねっていう悩みは、介護の仕事がなかなか理解されてないことにも共通しています。結果としてこうですよってことが言えないものじゃないですか。理解の難しさ、腑に落ちない感が似ているような気がします。

渡辺:だから考えることいっぱいありますよね。良い/悪い、そういう二極的価値観を超えていることなんで、その理解されなさを映画を通じて見てもらって、なんとなくこういうことかもしれないな、ってことだけでも分かってもらえたらいいですね。言葉でいくら言ってもピンとこないから。

佐藤:そういう意味では、ごちゃまぜの理想郷として『ズートピア』を見てもらうのもアリだし、ごちゃまぜってやっぱ難しい、受け入れることって難しいってことを、「桐島」とか『リリーの全て』とかを見ていくのか。どっちも考えられますよね。

渡辺:私はやっぱり『レゴムービー』の映像のつぎはぎ感が良かった気がします。ごちゃまぜって、どう考えてもキレイな映像にはならないと思うんですよ。パーツパーツがあって、それがツギハギになってる。全部不揃いだからやっぱりキレイにならない。そういうバラエティの豊かさがごちゃまぜだという気がしました。

佐藤:そうですね。決まり切った「心地よさ」って、かえって居心地が悪くなっちゃう。みんなが同じように心地よさを分かりあおうっていうとき、その「心地よさ」ってどこにあるんだろう。少なくとも、ひとつの心地よさではなくて、ちょっとずつ選択肢が出てくるような方向性がごちゃまぜな気がします。これまでの社会ではマーケットや市場原理が重視されて「小さな選択肢」が出てこなかったけれど、今後はいろんな選択肢が選べる状態になっていくといいと思います。それがツギハギ=ごちゃまぜ、ということかもしれませんね。

 

GochamazeTimesCompany

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全国各地にライターやプロボノを抱える編集社。タブロイド紙|GOCHAMAZE timesの季刊発行、および、地域の方々と共創するごちゃまぜイベントの定期開催により、地域社会の障害への理解・啓発|年齢・性別・国籍・障害有無に限らず多様な”ごちゃまぜの世界観”をデザインし続けている。

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